研究と思想

司馬遼太郎は「物事を現実主義的に判断するにあたって、思想性があることは濃いフィルターをかけて物をみるようなものであり、現実というものの計量をあやまりやすい。」*1と述べた。これは紛れもない事実であり、研究においても思想的な先入観はともすれば客観性を歪ませたり、重大な事実を見逃す原因となる。

しかし、研究に思想は必要である。ここでいう思想とは、個人の中では確信に近い。この思想がどのように構成されていくのか、一言で述べるのは難しいが、多くの一流と呼べる研究者はその思想を心内に持ち、それを構築しつつ日々の業務に邁進しているように見える。

つまり我々研究者は、この研究は重要である、必ず後世の役に立つという確信を持って、日々の研究に当たらねばならない。思想のない研究というものは単にテクニカルレポートという性質のもので、皆が合意するであろう客観的事実を、客観的に実験の数値で示したという以上の意味を持たないであろう。そうした研究が、後世に重大な影響を及ぼすことはない(と、信じている)。

普段工学系で執筆・投稿する論文は通常共著者がおり、共著者との合意が得られた事項のみを記述する。それに対し、博士論文とは、その当人の研究的思想を体現するものであると私は考えている。自らの思想を示せて初めて研究者として一人前であり、またプロの研究者として生きていけるのであろう。

*1:司馬遼太郎, 坂の上の雲 八, pp.315, 文春文庫