一万時間の法則

昨日Twitterスペシャリティを甘く見ない方が良い、という話を見て、少し思うところがあったので書く。


昨今日本発のソフトウェアやUIがだめだ、だめだと言われ続けているが(もちろんだめでないソフトウェアも沢山ある)、なぜそんな状況になっているのかということを考える。思うに、日本人は情報というものに対するスペシャリティを甘く見ているのではないか。


かつて日本が世界で一大ムーブメントを起こすことができたのは、機械、材料などの分野でスペシャリティを持った人材を大量に輩出できたからだ。日本のものづくり技術と言われるものの根幹であると思う。
それに対し、実体の見えない情報というものに対するスペシャリティは、上記の工学と比較して蔑ろにされてきたように思う。技術の凄さが実体として見えにくいだけに、軽視し結果として多大な損害を出すということを、日本人は戦前から続けているように思う。


先日電車の中でプログラミングをしていたら、酔ったおじさんに「お前みたいな虚業で儲ける輩がいるのはけしからん」と説教を受けたという笑い話を聞いたが、笑い事ではない。プログラミングでソフトウェアを作るのは立派な実業だし、こうした台詞が出てくるということ自体異常であると思う(おじさんがプログラマに嫌な思い出があったのかもしれないが)。


一万時間の法則というものがある。
プロとアマを分ける大きな壁として、一万時間のトレーニングがあるという経験則だが、これはどんな分野に対しても当てはまると思う。情報というもののスペシャリティについてもこの一万時間の法則は当てはまると思うし、スペシャリティは一朝一夕で身につくものではない。また、スペシャリティを持った人間はそうはいないし、安くもない。一万時間コードを書いたことある人間が、世の中にどれくらいいるだろうか。

どんな分野にせよ、スペシャリティは甘くみない方が良い。
逆にスペシャリティを持っている人は、他の人のためにもそのスキルセットを安売りするべきではないとも思う。


話は逸れるが、一万時間のトレーニングを積むためには週40時間で5年間、一日12時間働いて3年ちょっとの期間がかかる。博士課程の学生が三年間で1つの博士号を得るというのは、ある意味理に叶っていると思う。

もっと言うと、人生の時間が有限である以上、獲得できるスキルセットの数も有限だということだ。大学の授業で壺に石を入れるコピペを思い出すが、自分がどういうスキルを獲得して、何を為したいかによって、今の時間を有効に使う努力をしなければならない。